空いた両手がふさがらない

カフェインで目を醒まし、アルコールで眠る

消費の形

 体験型の消費が苦手だ。ここで体験型の消費とは、たとえば旅行に行くような金の消費の仕方を指す。旅行の何が嫌なのかというと、消費したところで何も手に残らないところだ。思い出は手元に残るのかもしれないが、記憶はいつか薄れ色あせて消えてしまう。畢竟、目に見えないサービスにお金を払うのが怖いといっていいのかもしれない。掛け捨ての保険には絶対に入りたくない。アミューズメントパークにもレジャーにも行きたくない。電子書籍も買ったことがない。

 翻って体験型の消費に分類されるものの映画や水族館に行くのは好きだ。対価と得るものが適正に一致している実感があるから安心できる。映画とて観た内容は徐々に忘れていくものではあるが。映画を観たあとは結構な割合でパンフレットを買ってしまうのは無意識のうちに形に残るものを欲することの現れだったのかもしれない。食事もほどほど満足できればいいと思っている。高級な料理も低級な料理も腹に入ってしまえば排泄されるという点で同じだ。ただ、ほどほどというのが曲者だと思う。ほどほどの基準は得てして上がってしまうものだからだ。限界効用逓減の法則にしたがってより良いものを求めてしまうのは性だ。

 物を手に入れるのは好きだ。体験型の消費に金を回さない分、本やCD、ちょっと値が張る服をよく買ってしまう。読んだ本は滅多に読み返さないし、ましてや取り込んだCDなど見向きもしない。しかしあると安心するのである。服といえば尖った服が苦手で、良くいえばオーセンティック、悪く言えばおもしろみのない服を選んでしまいがちだ。物はあいまい極まりない記憶と違ってずっとあるがまま手にすることができるし、何より対価を払って得たという重みが実感できる。形あるものでも、いつかぼろぼろになって壊れたり使えなくなったりして手放してしまうことになる。が、そうなるまでは大切に使うし、好みが変わったくらいで捨てないように数年単位の運用を考えて入念に計画を立てているつもりだ。良い物を買って長く使いたいと思っている。高価といっても年単位で償却すれば高い買い物ではないと思う。それに、高価なものは堅牢な上に正規に修理を請け負ってくれることが多いので長く使うにはうってつけだ。と、御託を並べて無駄な出費を自己正当化してみるテスト。

 体験型の消費を避けてきて後悔していることが一つある。自分の写真がぜんぜん残っていないのだ。古い日記を読み返すことほど楽しいことがないのと同じくらい、昔の自分の写真を見返すのは面白いと思う。薄れ行く記憶を保存するために写真があるのかもしれない。金が貯まったら、良いカメラでも消費して体験を切り取りに行ってみたい。