空いた両手がふさがらない

カフェインで目を醒まし、アルコールで眠る

うつわ屋さんで珈琲を飲む

 日々忙しくしていると貴重な毎日が雑になってしまう気がする。近況については定期的に報告して、思うところを内省せねばならないと思う。

 今日は時間があり、近所のうつわ屋さんでラテを飲んだ。さまざまな作家のうつわがセレクトされているこじんまりとした店である。白を基調とした店内は天井が高く、古材をリメイクしたデスクのうえに、やや隙間を空けてうつわが並んでいる。夫婦でされているみたいだ。実は何回か訪れていて、気に入ったうつわをいくつか買ったこともある。個人経営の小売店で何も買わないのは、やや冷やかしな印象がして苦手だが、ここへは珈琲を飲むのを口実に定期的に来て新入荷をチェックしている。店の人が気さくなので、近所のスポットを教えてもらったこともある。

 食器は100均の樹脂の食器でも、機能的には何ら不満はないはずである。安くて、金銭的に合理的だ。ただ正論とか、合理性だけを食っていては、人は息が詰まる。健康的には悪かろう、でもたまには塩辛いラーメンをスープまで飲み干してみたりしたい。

 ファストフードとか、コンビニとかは人を捌くことに特化した、合理性の塊みたいな施設であると思う。デフレ下に薄利多売でを利益を目指すなら、効率をあげるほかなく、不要なものを削ぎ落とすのが道理なんだろう。ファストフードのハンバーガーは、味が好きである。しかし、ベルトコンベアのような無機質な商売には違和感を感じる。そこでは顔が見えないしありがたみが浮かんでこない。個人経営のカフェで出されたサンドイッチを食べるとき、自然と作り手が想起されて、美味しそうだという感情が自ずから湧く。これがコンビニで買ったサンドイッチを食べるとき、同じ感情は湧きようがない。個人が捨象された空間では、相手の顔が見えない。さながらSNS掲示板に書き込まれる罵詈雑言のように、容易に思いやりにかける要求、つまり対価以上のサービスが要求されるのではと思う。いま相対しているのは、システムに組み込まれたレジ打ちマシーンではなく、ひとりの尊重されるべき人間なんだな〜と、デフレが産んだ、0円で最高のスマイルを浮かべる店員を見て思った。